本日の菊が浜 春休みなのに雨
萩市菊ヶ浜は雨。
「春休み」となりコロナが ""どうのこう""言い飽きて、集団hysteria状態から落ち着いたが、天気が悪い。
絵柄が沈んで暗いので追加で屋上カラ、雨に打ち煙る「萩城下町」の情緒ある低層階の瓦屋根の街並みをご覧ください。スキ好んでこの景色に成っているのではなく、「景観条例」でガチガチに規制されているからコウナッテいることを、ご考慮ください。
ねんねん何処からかの規制を真似て来て、ついには剥製・ハクセイやホルマリン漬けにするつもりでしょうか? せめて生態展示の動物園くらいにしてもらわんと繁殖行動も興らんことなって絶滅しちゃうよ。 来年には年金を取得する権利が発生する「ボケはじめ」老人の主張でした。「早よ貰わんと何時お迎えが来るか判らんのじゃけぇ」
咲いた咲いた
今週の始めに硬いツボミの桜を活けましたが、暖房の吹き出し口に近い枝は満開となりました。料亭の水際の桜は未だチラホラで、暖かい・熱い情熱で焙るか焚くかして咲かせましょう。
瑞雲か…吉凶いかに・・・
只のウロコ雲だと思います。
長登…ながのぼり…ならのぼり…奈良登り
幕末、萩藩の正義派・尊王攘夷派の高杉晋作の下関・長府功山寺の挙兵を機に藩内の草莽崛起(そうもうくっき)の志士たちが、幕府恭順の俗論派の旧兵法の武士達を大田絵堂の戦いで撃破、萩藩論は討幕へ統一し突き進む事と成ります。
その地に奈良時代から昭和にかけて銅を産出していた「長登銅山」があります。
東大寺の大仏もこの銅で鋳造されました。
時代は下って鎌倉期、平氏の南都焼き討ちで焼失した東大寺の復興大勧進を行った重源上人は防府佐波川上流徳地から木材を奈良へ送り出しました。南大門の大きな門は徳地産の木材です。
藩内俗論派のパージを逃れ福岡・隠棲から急きょ帰藩、当初は山縣有朋ひきいる奇兵隊にも挙兵を断られ、高杉晋作の功山寺決起の手勢はわずか80人、その中に後の伊藤博文の力士隊も居ましたが、成功の確証は何もなく、晋作は功山寺に匿われていた三条実美ら○五卿○・×七卿×に「長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す」と言葉を残し、まずは下関の藩の武器庫を急襲、三田尻の藩の軍船の部隊を説き伏せ合流し、その後各隊が次々と加わり、一気に藩都の萩へ攻め懸けます。
吉田松陰の「死して不朽の見込み有ればいつでも死すべし、生きて大業の見込み有ればいつでも生べし」の言葉が有りました。