スタッフブログ -千春楽の出来事-

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幕末、萩藩の正義派・尊王攘夷派の高杉晋作の下関・長府功山寺の挙兵を機に藩内の草莽崛起(そうもうくっき)の志士たちが、幕府恭順の俗論派の旧兵法の武士達を大田絵堂の戦いで撃破、萩藩論は討幕へ統一し突き進む事と成ります。
その地に奈良時代から昭和にかけて銅を産出していた「長登銅山」があります。
東大寺の大仏もこの銅で鋳造されました。
時代は下って鎌倉期、平氏の南都焼き討ちで焼失した東大寺の復興大勧進を行った重源上人は防府佐波川上流徳地から木材を奈良へ送り出しました。南大門の大きな門は徳地産の木材です。



藩内俗論派のパージを逃れ福岡・隠棲から急きょ帰藩、当初は山縣有朋ひきいる奇兵隊にも挙兵を断られ、高杉晋作の功山寺決起の手勢はわずか80人、その中に後の伊藤博文の力士隊も居ましたが、成功の確証は何もなく、晋作は功山寺に匿われていた三条実美ら○五卿○・×七卿×に「長州男児の肝っ玉をお目にかけ申す」と言葉を残し、まずは下関の藩の武器庫を急襲、三田尻の藩の軍船の部隊を説き伏せ合流し、その後各隊が次々と加わり、一気に藩都の萩へ攻め懸けます。
吉田松陰の「死して不朽の見込み有ればいつでも死すべし、生きて大業の見込み有ればいつでも生べし」の言葉が有りました。


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